昭和54年10月04日 朝の御理解



 御理解
                                         御と言う字を一字だけ頂くんです。ですからその事を聞いて頂こうと思います。ここでは全ての事に御の字をつけると。甘木の初代は、一切の物に御の字をおつけになられた。神様の御物として頂かれた。そこにそれこそ枯れ葉、枯れ枝一本一枚でも、神様の御物として頂き抜かれて、あの大徳を受けられた。合楽では全ての事柄に御事柄としてね。神様がそれは良い事悪い事、一切を私に下さるものとして、御の字をつける、御事柄として受けていくね。
 そこで私は甘木の初代の御の字と、合楽で言われる御の字との、まぁどんなふうに違うだのろうかと。合楽の場合には、自分の都合で御の字をつけておると言った様な感じがするんですけどね。もう全ての事に御の字を、まぁ最近本音と建前と言った様な事が言われます。いわゆるこんな事はしてはいけんのだけども、それが大体は建前なんだけれどもどうもそうせずにはおられない。そこで神様にその御事柄としてそれを頂く。そこに何とはなしにこう許されたと言うか、コントロ-ルが出来て心に引っ掛からんで済むと。
 そう言う時にばかり御の字を使うておると言うわけでもないんでしょうけれどもね。私は合楽の場合は、まぁ便乗主義的な御の字ではなかろうかと。これはいよいよもって例えばどういう嫌な事であっても、苦い思いをするような事であっても、それを御事柄として受けていく。また受けさせて頂く姿勢と言うものが、いよいよ見当されて、いよいよおかげを受けなければならないと言う事になります。
 そこで合楽で言われるその御の字が自ずと出てくる程しの信心と言う事が求められる訳です。ここは御の字をつければそれでコントロ-ル出来ると、言った様な計算的なもんではなくてね。勿論そうもしなければならない時も事もございます。けれどもそれはそれだけで終わるとすると、合楽の御の字はね便乗主義、自分の御都合主義と言う事になるんです。御都合主義がいけんのじゃないけれども、それでは信心の真美というものには触れられないと思う。
 私はもう昨夜ちょうどま二、三時間位、あのう色々と眠らずにもう眠れませんでしたから、眠らずに色々な事を思わせて頂いて。本当に眠られないと言う事が寝ながら神様と問答が出来ると言う事なんて、何と有り難い事だろうかとこう思うんです。そしてまぁ小用が近いもんですから、もうそれこそ何回も何回も便所に立たしてもらう。喉が渇けばそこに冷たい水があると言う事は何と有り難い事だろうかと私思うんです。もう昼じゃろかお腹がすいてきたと言うのに、もしそこに食べる物がなかったらどうでしょう。
 それこそひもじい思いをしなければならないでしょう。ひもじいと思う所にそこに食べ物があると言う事は何と有り難い素晴らしい事だろ。繁々と便所に通う。まぁ本当に面倒臭い、本当何かシビンなっと持って来とこかと思う位に、言わば繁々と行くんですけども。繁々と起きてお便所へ行けれると言う事が、そこにお便所があると言う事。お便所がおかげで出ると言う事が、もうとにかく昨夜もその事が有り難かったんです。私は今日は素人とか玄人とかと言う事は、教師とか信者とか言う事ぢゃないです。
 教師にも素人がおります。御信者でも手篤い信心をなさる方があります。昨日はあの様に盛大に婦人大会がございましたが、何と言うでしょうかね。まぁ皆さんの熱意があのような盛大な事になり、何かしろ足ろうたと言うかもう本当に見事な大会でしたし、内容が大変もう今まであった大会のでは一番最高でしょう。充実しておったと言う事が。最後までそれを私は感じました。最後のあの何ですか皆さんが発表なさる時に、熊谷さんが発表なさっておられました。
 その発表しておられるその事を、あのう講師である森先生が聞かれて、非常に心を動かされ感じられただろうと思う事があったんです。わざわざあの御直会の時に熊谷さんのとこに行ってから、もうそのどの位の信心ですかいろいろとこまごまと聞いておられましたがね。どこにあの熊谷さんの信心に引かれなさっただろうかと。昨日はテ-マが「人の事を祈れる私になろう」と言う事であったが、森先生は祈れる、祈れる私になる前に祈られておる私、願われておる私と言う事をお話になりましたですねえ。
 熊谷さんがほんの短いお話の中に、本当に合楽示現活動に参画すると言う。本当に人にも導かせてもらうお話もさせてもらおうと、一生懸命はずんでお話をした時代には一人もお導きが出来なかったけれども。祈られておる私、いわゆる親先生に祈られておる私。祈られて示現活動が出来ると言う心の状態になったら、この頃から向こうから話を求めて、次々と助かっていかれるのがうれしい、有り難いと言うその発表をなさいましたね。だから森先生が引かれなさったのはそこです。
 だから森先生にしてみれば、いやあ合楽には信心が手篤い、本当に玄人がおられるなと思われただろうと思うです。私は今日この“御”と言う字は行んん遍に“卸す”という字が書いてありましょう。だから玄人の行とこれはなら道の教師だからと言うて本当に。信心のなかもんでん、そげな事はせんばいち言うごたる教師もやっぱおるわけです。素人が居るのです。かと言うてなら御信者の中にもとても、お道の教師もかなわんと言う様な熱意をもって信心を求めて行かれる方もあるのです。
 そう言う意味合いで私は、あの熊谷さんの信心をやはり玄人だと頂けますですね。合楽の皆さんの場合はもう本当に信者だけれども。内容は玄人だと言う信心を頂きなさらなければ、これだけ徹底した教を頂いておって相済まんです、神様にいつまでも素人ごたること言うちからね。素人でも腹立てんごたるとこに腹立てたり、素人でもせんごたる事をしたりと言った様な事ではね。何時までたっても言うなら私は、そう言う人がいかに御の字をつけても本当の御の字にはならん、受けなさらんと私は思うです。
 御の字さえつけりゃよいと言われるけども、だから信心の玄人と言うか、まぁ今日私が申しますようなね。喉が渇くなと思うところにそこに水があると言う事。お便所に行きたいと思ったらそこに便所がある事、また便所が言うならばねスム-ズに出させて頂けると言う事が有り難い。四遍行こうが五遍行こうがあっ煩わしい事だなどと言う様な心ではなくて、そこに便所があると言う事が有り難いと分かるような信心ね。私はそう言う信心を玄人の信心だと言う風に思うんです。
 昨日はとうとうお米がのうして、御飯を食べんじゃったと言う人はありませんでしょうもん。皆さんの周りの中ににはね。喉が渇いたばってん水がなかったと言う人はないでしょう。便所に行ったばってん小便づまりで出らんじゃったという人はないでしょうもん。そこに便所があると言う事、出す事が出来る事。飲もうと思えばそこに水がある事、これはまあ沢山ございましょう。そう言う意味な事、そこにです。私は心から有り難いなぁ、勿体ないなぁと言う様な心が湧く信心。
 そう言う信心を私は信心の玄人だと言う風に今日は聞いて頂きたい。そう言う行をしておるから言うならば玄人。そう言う人はです。まぁいろいろな時に本音と建前のコントロ-ルの事もありましょう。全ての事柄に御の字をつけると言うならばです。そう言う時にそう言う場合に、そう言う人がどのような場合にでも御の字をつけた時に、甘木の初代が言われておった御物と言う事と、同んなじ様な位の御の字になるのじゃないだろうかと言うふうに思うですね。皆さん自分の信心を確かめて見て下さい。
 そしてそこにです。飲みたいと思えばそこに水がある。便所に行きたいと思えばそこに便所がある。あるだけではないスム-ズに出る。もうその事だけでも有り難いなあと寝る暇もなか、こげん何遍でん便所に行かにゃならんと言う様な事じゃなくて行けれる、その事がね有り難いと。私は金光様の御信心はね。天地の大恩とか御恩徳とかを段々こう身に付けていき、分からせて頂いたらそうなってくるんです。それこそ目が見えとると言うだけでも有り難い、耳が聞こえてると言うだけでも有り難い。
 食欲が出ればそこに食べ物があると言うだけでも有り難い。ここに心から有り難いと言う答えが出て来る様な信心を、今日は玄人の信心だと。そう言う人が全ての事に御の字をつけたら、もう素晴らしい事になってくるだろうと言う事でございます。それの手立てとしてです。昨日私大会の時にその事も皆さんに聞いて頂いたんですけれども、『内田峰子さんですよね。公子先生のお母さんが亡くなられたと言うて、あの息子の内田資生さんがあのうお葬式代と言うてから六百万持って来た』ところを頂いたんです。
 そして内田さんはピンピンしてござると言う様な事ですから、はあこれは死になさると言う事じゃない。これは自分を空しうすると言う事だなとこうね。親先生が亡くなられたお夢を頂かれる。そう言う時には私は必ずある事で自分と言う者を空しうして行こうと精進しておる時なんですよ。私がなくなって行きよる。段々大坪総一郎と言うものがなくなっていってね。
 私と言う者がもう言うなら無の状態になった時に、初めて金光大神と合体が出来る。天地の親神様と合体が出来る。私はそう言う風に思うんですけれどもね。結局自分を空しうする稽古。内田資生と言うのは勿論、内田は資生と言うのは資本の資が書いてあるのです。資生堂の資なんです。生と言うのも資生堂の生です。生まれるです。資が生まれるね。はぁ御造営にもおかげも頂きたいばってん、資が生まれなかったら御造営は思うだけでは出来んでしょうが。
 それにはねやはり私が空しうなる稽古。言うならば我情を取り我欲を取って行く、本気での生活本気での信心が出来なければね。今私が申しますようにね。水が飲みたいそこに水があると言う事が有り難いと言う様なおかげになってこんです。もう当たり前のごたる感じがするんです。当たり前のような思いになって来るんです。夜中に何遍も何遍も便所へ行くあっせからしいと思うです。せからしいだんじゃなか。
 ほんなごて行くたんべんにスム-ズに出る事も、そこに便所があると言う事も有り難いなぁと、感じれれるような信心は私は一応自分と言う者を空しうして、本当の真の信心を求めて行く人じゃなかなければ。そう言う味わいと言うものは味わえないと思うです。そう言う味わいが味わえて、全ての事に御事柄として頂けれる、まぁ資格のようなものが与えられるような感じがするんです。
 それでいて本当の意味においてのコントロ-ルが出来るのです。全ての言うならば、苦い事であろうが辛いことであろうが、痛い思いをする事であろうが、恥ずかしい思いをする事であろうが。それを御の字をつける。そこに素晴らしい、そこに修行がある訳です。その修行を頂きぬくところにね。次のおかげの世界が言うならば合楽の世界が開けて来ない筈はないのです。今日は御の字と言う事を大変難しい御の字をつけさせて頂くようにならなきゃいけないと言う話を皆さんに聞いて頂きました。
 何故難しいかと言うと、まず自分が空しうならなければ、私が今日申しますような御の字はつけられないからです。いわゆるそこに内田資生が六百万と言う事は後から考えれば考えるほど素晴らしい、御神意がある事だと思いました。あれば例え一千万ぢゃいかんのです。やっぱ六百万ぢゃなからなきゃね。六と言う字はお徳とこう仰る。しかもそのそこに言うなら資が言うなら財なら財が次々と生まれる。
 使ってへらぬ金百両と言う意味なんです。もういよいよそう言うお徳を受けて行く、言うならば今日はね、玄人の信心を聞いて頂きました。おかげを頂くと言う事よりも、徳を受けると言う事を聞いて頂きました。本当に徳が段々身に付いてこなければ、あぁ喉が渇く時に一杯水をもろうた、あぁおいしかったとその時は思いますし、有り難いとも思いますけども。そう言う意味での只あの有り難さではなくてね。そこに水があると言う事が有り難いと言う事です。
 そこに食べ物があると言う事が有り難いと分かる信心。そう言う信心を私合楽では玄人の信心と言う風に今日は聞いて頂きました。お道の教師だけが玄人ではありません。お互い信心させて頂くならばもう十年も信心をするなら、それこそ我ながら我が心がまつれれる。我が心が拝めれるような信心。そう言う信心から生まれてくる全ての事に対する御の字がつけられると言う信心をもって私は玄人の信心だと言うふうに思います。今日は御の字という字をこう一字頂いたから、御の字から頂いた御理解です。
   どうぞ。